〈前編〉バトントワリング選手が日本で一番バレエコンクールを主催する人になったワケ 【ダンサーインタビュー1:山城陽子さん】

日本で最も開催数の多いバレエコンクール「Japan Ballet Competition」の主催者・山城陽子さん。

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意外にもバレエ業界との出会いは20代後半になってからだそう。なぜ「バレエダンサーのキャリアを守りたい」という目標を掲げるに至ったのでしょうか、お話を聞きました。

年間16大会、11地域でコンクールを開催

――まず、現在のご職業について聞かせてください。

現在は「Japan Ballet Competition(JBC)」というバレエのコンクールを年間16大会、11地域で開催しています。ちょうど今年の夏で立ち上げてから10年になります。

クラシックバレエのコンクールの開催のほかには、デジタルコンテンツクリエイターとして、 印刷物やホームページ、ロゴマークなど、舞台・バレエ分野に特化したデザイン制作の業務や、舞台制作のマネージメントもやっています。

部屋の中で立っている人たち

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――バレエコンクールを始められたきかっけは、やはり山城さんご自身がバレエダンサーでいらっしゃったからなのでしょうか?

実はバレエ業界で仕事をするようになったのは20代後半からで、私自身、ダンサーはダンサーでも「バトントワリング」の選手でした。

全国8位になるも22歳で競技を引退

――「バトントワリング」にはいつ出会われたのですか?

5歳の時に運動音痴の姉がカルチャーセンターで習い始めたのがきっかけでした。その後、親の離婚で一時中断しましたが、14歳で再開してから22歳までの8年間は没頭しました。

ポーズをとる男女のグループ

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片親家庭で家計に余裕がなかったので、中学からは新聞配達、高校ではアルバイトを掛け持ちして活動資金を稼ぎました。とにかくバトントワリングが好きだったので、全然苦ではなかったですね。

最終的に21歳の頃、コンクールの「ツーバトン」という2本のバトンを持って踊る部門で全日本選手権で第8位になることができたのですが、22歳で結婚して競技を辞めてしまいました

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初めての就職はお客さんの紹介で

――え、キッパリ辞められてしまったんですか!?

今となっては、いろいろな選択肢があったし、続ければよかったなって思うけど、当時、自分の中では「やりきった!」と清々しい気持ちで現役を引退しました。

翌年の23歳の年には長男が生まれ、そこから4年ぐらいは専業主婦でしたが、27歳の時に、結婚する1年くらい前に初めて就職した会社に、パートとして復帰します。

国際スケート連盟公認の採点システムを開発したコンピューターのソフトウェア会社で、当時アルバイトしていたお店で仲の良かったお客さんが、その会社の隣の会社の社長さんだったんです。「よかったら面接行く?」と言われて、「行きます!」と受けたら採用になったという。

パソコンのパの字も知らない状態だったけれど、「 何も知らない素人の方が絶対伸びしろがあるから」と採用してもらい、パソコンを触ってない人の方が多かった時代に、寿退社するまでの約1年半、会社の皆さんに教えていただきながらOJTでパソコンを勉強させてもらいました。

初めて就職した21歳の頃

■バレエ業界との仕事の始まり

――復帰後はどのような仕事を担当されたんですか?

「松本道子バレエ団」という名古屋の老舗のバレエ団と、青少年のためのバレエコンクール「ザ・バレコン」のホームページ制作でした。コンピュータ業界からしばらく離れていたので浦島太郎状態でしたが、お客様には専門家として接しなければいけないので、子育ての合間を縫って、とにかく必死に勉強しましたね。

そして、28歳か29歳ぐらいの時に、 社長の勧めもあり、「ザ・バレコン」と「松本道子バレエ団」に事務の担当者として移籍することになったんです。これが、私のバレエ界の仕事のスタートでした。

――バレエ業界に入るにあたって、戸惑いはありませんでしたか?

バレエ業界は初めてでしたが、子どもの頃からバトントワリングの先生と接してきた経験がとても役に立ちました。バレエの先生との話し方、接し方は息を吸うようにできたし、配慮すべきポイントや、怒らせちゃいけない部分とか、師弟関係の空気感は業界が違っても充分通用しました。

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バレエ業界で働く基礎を築いた「ザ・バレコン」時代

――ダンサーとして共通するカルチャーがあったのですね。

そうなんです。その頃の「ザ・バレコン」さんは、まだ名古屋で年1回開催のコンクールでしたが、私が入って1年、2年が経った頃に、東京、大阪、仙台、福岡、北海道と、年間6大会まで増やすことになっていきました。私がバレエ界で長年仕事していく中でのすべてのことを学ばせていただいた大事な時期になりました。 

今デザイン系のことができるようになったのも、この頃の経験が元になっています。昔からの縁で高いお金を払って発注していた印刷物を、自分でイラストレーターを使って制作するなど内部からの経費削減改革を進めるうちに勉強しました。

――その後もしばらく「ザ・バレコン」で働かれたのですか?

声かけてくださった方の会社に入社し、32、33歳くらいの時に「NAMUEクラシックバレエコンクール」を立ち上げることになりました。

でも、私自身バレエの先生でもないし、バレエダンサーでもない、加えてバレエ関係でもない企業が、バレエコンクールを開催するということ自体が業界でも異例で、そこから6年間、がむしゃらに働き続けました。ただ、38歳の時に急遽入院することになりまして……。

「自分の思うコンクールをやろう」と決心

――え、入院ですか!?

はい、過労がたたって……。入院して、初めてそこでゆっくり寝て、ゆっくりご飯を食べたんですよ。 そしたら、 今の状況を俯瞰して考えることができて。

ダンサーの子たちがどれだけ苦労でコンクールに臨んできたか、ずっと見続けてきたので、頑張っている子たちが踊る場所を守りたい一心でやってきました。でも会社に所属している以上、その方針には従わなきゃいけない。じゃあもう自分でリスクを取って、自分の思うコンクールをやろうと勇気を出して始めたのが「Japan Ballet Competition(JBC)」でした。

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――偶然の出会いが重なって訪れた、まさに人生の転機ですね。

初年度は3大会、 2年目は6大会、3年目は9大会と少しずつ広げながら、今の年間16大会というところで走り続けています。

最初は私の名前を出さずに「Japan Ballet Competition」を告知していたのですが、 いざ開催してみたら、私がいて「あ、山城さんがやってるのね」とバレエの先生たちが参加をどんどんしてくれるようになってきました。

私の仕事ぶりを皆さんは見てくれていたということが、JBCを始めて証明されたのがすごく嬉しかった思い出ですね。

■いつか47都道府県で開催したい

――最初から開催地を増やしていこう、というビジョンを持たれていたのですか?

以前は大きな都市でしかコンクールがなかったので、 地方の子は遠征しなきゃならない、そういう都市と地方の格差を減らしたい、という思いがありました。年に1回、地元でコンクールに出て、自信がついてきたら、大きなコンクールに挑戦してみる。そういう存在になれるよう、赤字でもいいから、各都市でやりたかったんです。極端な話、全都道府県で本当はやりたいです。

北海道とか沖縄の開催は正直赤字でやりたがらないところは多いんですけど、年間で考えたら、なんとかなるでしょうくらいの感じで、ヒーヒー言いながら続けています(笑)。

「北海道から沖縄まで、年間16大会、バレエコンクール開催してます」が、私の今のキャッチフレーズなんです。そこに私がやりたいことが詰まっています。

<後編:https://dancerscareer.jp/archives/396

【山城陽子プロフィール】

1975年、愛知県生まれ。BALLET SUITE代表取締役社長。5歳のころバトントワリングに出会い、21歳で全国8位に。その後、「松本道子バレエ団」、青少年のためのバレエコンクール「ザ・バレコン」「NAMUEクラシックバレエコンクール」での経験を経て、日本で最も開催数の多いバレエコンクール「Japan Ballet Competition」の主催者に。現在は、ダンサーの人生の選択肢を広げるべく「ダンサーズ・キャリア・サポート」を仲間とともに立ち上げ、活動を続けている

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