プロダンサーから企業人事へ「ダンスだけで生きていくことだけが正解ではない」病を経て見つけた新しい道

「ダンサーとして生きていく」。
その夢を追いかける多くの人が、一度はキャリアの壁にぶつかるのではないでしょうか。好きなだけでは食べていけない、という厳しい現実。しかし、ダンスを諦めるか、続けるかの二者択一だけが道ではありません。
今回は、大手芸能事務所への就職、海外でのダンサー活動、そして病による挫折を経て、現在はダンススタジオなどを運営する「プレジャーガレージ」の人事部として働きながらダンスに関わり続ける高田真琴さんにお話を伺いました。「会社員でもダンスはできる」——その言葉に込められた、新しい時代のダンサーのキャリアの築き方とは。

◾️「ダンスでは食べていけない」恩師の言葉がキャリアの原点

――まず、高田さんがダンスを始められたきっかけを教えていただけますか?

高田さん:「それが、きっかけが少し変わっていて。4歳の時に、自分から母親に『ダンサーになりたい』と言ったそうなんです。なぜそう思ったのかは、自分でも覚えていないのですが(笑)。バレリーナではなく、ダンサーだった、と。母はバレエ教室を探してくれたのですが、そのとき近所にあったのがモダンバレエの教室で、そこから私のダンス人生がスタートしました」

――物心ついた頃から、ダンサーになるのが夢だったのですね。

高田さん:「そうですね。ただ、ダンサーとして生きていくとは全く思っていませんでした。というのも、小学生の頃から習っていた先生が『ダンスでは食べていけないから、学業もしっかりしなさい。そうしないとコンクールには出さないよ』という方針のスタジオだったんです。なので、自分はいつか就職するものだとずっと思っていました。その割に、週6日でレッスンに通ってコンクールにも出ていたので、少し矛盾しているのですが(笑)。でも、先生の言うことは絶対でしたから。高校はダンスと勉強、大学はダンスと勉強とアルバイトばかりの生活でしたね」

――かなり早い段階から、就職を意識されていたのですね。

高田さん:「就職活動は大学3年生の時から、周りの学生と同じタイミングで始めました。当時はダンスから一度離れて、マスコミ業界で働きたいという気持ちが強く、芸能事務所のホリプロに就職したんです。ダンサーのマネジメントができないかという夢もありました」

◾️憧れの企業に入社するも半年で退職。舞台袖で感じた“違和感”

――実際にはどんな業務を担当されたんですか?

高田さん:「配属されたのは舞台事業部だったんです。ダンスをやってきたから、という理由だったのかもしれません。そこで海外の有名なダンスカンパニーの公演などを担当したのですが、ある日、舞台袖に立った瞬間に、ものすごい違和感に襲われたんです。『あれ?私、こっち側(支える側)じゃない、あっち側(舞台に立つ側)の人間なんじゃないか?』って。その気持ちがどんどん大きくなってしまって……結局、半年で会社を辞めてしまいました。私の人生の大きな分かれ道だったと思います」

――大きな決断ですね。退職後はどうされたのですか?

高田さん:「もう一度ダンスの道に進もうと決めて、まずはベルギーに自費で留学しました。その後、文化庁の海外研修員制度を利用して、イスラエルに1年間留学し、コンテンポラリーダンサーとして活動していました」

――海外でプロのダンサーとして活動されていたのですね。

高田さん:「はい。でも、そこでまた大きな壁にぶつかりました。日本に帰国してから、コンテンポラリーダンサーとしてどうやって生きていくのか、という問題です。海外であれば、カンパニーに所属すれば踊ることに専念できます。でも日本では、踊れることや表現できること以前に、自分をプロモーションする力や、人とつながっていく力といった、ビジネス的なスキルがものすごく必要で。私にはそれがうまくできませんでした。だんだんと、教える仕事や健康体操のインストラクターなど、とにかく自分にできることをしてお金を稼ぐ、という生活になっていきました」

◾️突然の病、キャリアの中断。そして見つけた新しい道

――理想と現実の間で、大変なご苦労があったのですね。

高田さん:「そうですね。だから病気にもなるよな、という感じでした。33歳の時に、自己免疫系の疾患を発症してしまったんです。体が硬直し、思うように動かせなくなってしまって。2年くらい原因が分からず、ただ『踊れない』という不安だけが募っていきました。病名が分かった時には、もうダンサーとして教える仕事などもすべて辞めて、一旦、岩手県の実家に戻りました。無職の状態です。あの時は、会社が守ってくれるわけでもなく、フリーランスで生きていくことの厳しさを痛感しましたね。本当に辛かったです」

――そこから、どのようにして現在のキャリアに繋がったのでしょうか。

高田さん:「実家に戻ったものの、このままでは精神的にダメになると思い、もう一度東京で就職しようと決意しました。そこで、ダンサー時代にインストラクターやアルバイトでお世話になっていた今の会社に連絡をして、『働けませんか』と相談させてもらったんです。最初は受付のアルバイトからスタートして、その後、スタジオ運営の社員になりました。これが2回目の就職活動ですね」

――病気を抱えながらの再スタートには、不安も大きかったのではないでしょうか。

高田さん:「はい。『週5日で勤務できるだろうか』という不安はすごくありました。でも、やってみたら大丈夫でした。そして、社員として3年間働いた後、国の教育訓練給付金制度を利用して、キャリアコンサルタントの国家資格を取得しました。それがきっかけで、今は本社の人事部に所属しています」

◾️「会社員として働きながら踊る」という選択肢

――ダンサーとしての経験は、今のお仕事にどう活かされていますか?

高田さん:「人事の仕事は言葉を使ってコミュニケーションを取ることが中心なので、言葉を使わずに表現するダンスとは真逆だと感じることもあります。でも、これから力を入れていきたいと思っているキャリアコンサルタントの仕事は、相手の話を聞いて、その人が一番大事にしていることや本音を引き出す仕事です。それは、コンテンポラリーダンスの作品を創る時に、人と向き合ってその人の表現を引き出す感覚とすごく近いと感じています」

――現在もダンスは続けられているのですか?

高田さん:「はい。もうプロとして舞台に立つことは考えていませんが、今は会社員として働きながら、週に2回はバレエやコンテンポラリーのクラスを受けています。体を動かさないとストレスが溜まるタイプなので(笑)。生活の主体は仕事ですが、趣味としてダンスを楽しんでいます。会社で働きながらでも、十分に踊ることはできるんですよ」

――その「会社員として働きながら踊る」という働き方は、多くのダンサーにとって新しい選択肢になりそうですね。

高田さん:「そう思います。フリーランスでダンスの仕事だけを追い求めていた時は、体を酷使して疲労も溜まりました。でも今思えば、一般企業で会社員として働いて体力を温存し、空いている時間で創作活動をする、という道もあったなと。今の日本の社会で、自分のやりたいダンスのクオリティを守るためには、ダンス以外の仕事で安定した基盤を持つことが、結果的に自分のクリエイティブな時間を守ることに繋がるのかもしれない、と今は思っています」

◾️「視野を広げれば道は拓ける」

――最後に、キャリアに悩んでいるダンサーや、そのご家族、指導者の方々へメッセージをお願いします。

高田さん:「ダンスやバレエで生きていくことは、並大抵のことではありません。努力だけではどうにもならない壁に、必ずぶつかる時が来ます。その時に、自分の人生にとって何が一番大切なのかを考えて、行動する力が必要だと思います。

そして、少しだけ視野を広く持ってみてほしいです。ダンサーは素直な人が多いので、先生や振付家など、身近な人の言うことが全てだと思ってしまいがちです。でも、その人の意見が全てではありません。いろんな人の話を聞いて、いろんなモデルケースを知ることで、自分を守ることにも繋がります。

私自身、たくさんの壁にぶつかって、後から『こうすれば良かった』と思うことが何度もありました。でも、その経験があったからこそ、今があります。ダンスだけで生きていくことだけが正解ではありません。会社で働きながら踊る道もある。もしかしたら、その方が心穏やかに、長くダンスを愛し続けられるかもしれない。一つの道に固執せず、自分にとって一番幸せな関わり方を見つけていってほしいなと思います」

高田真琴(たかだ まこと)
岩手県出身。4歳でモダンバレエを始め、ダンス一筋の学生時代を過ごす。早稲田大学卒業後、株式会社ホリプロに入社するも半年で退社。その後、コンテンポラリーダンサーとして再始動し、ベルギー、イスラエルへ留学。文化庁海外研修員としての経験も持つ。33歳で自己免疫疾患を発症したことを機にダンサーとしてのキャリアを転換し、現在はダンススタジオなどを運営する株式会社プレジャーガレージの人事部に勤務。会社員として働く傍ら、国家資格キャリアコンサルタントとして、自身の経験を活かしダンサーのキャリア支援にも強い関心を寄せている。

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